経営者としての使命を追求したら、誰もいないこの事業領域にたどりついた。
昨年、株式会社MIYACOの代表をやめるという、自分にとっても会社にとっても大きな決断をしました。大好きなMIYACOを離れ、2023年11月に株式会社一(ICHI INC.)を設立。またゼロからスタートして、事業の立ち上げに奔走しています。
僕は、日本が誇る経営者を目指して26歳でMIYACOを創業しました。「我がままであれ」という理念を掲げ、二人の弟とメンバーと共に、教育・起業家支援・地域創生などの事業に挑戦してきました。もうすぐ37歳になる今、ICHIという会社、そしてHIGH HOPEという事業に至るまでの半生を振り返ることにしました。
アクセルを踏みながら、ブレーキをかけている感覚があった
MIYACOの経営の中心には、いつ言い出したのかわからないくらいずっと当たり前に「我がままであれ」という理念がありました。具体的に言うと、自分らしく生きよう、そして自分が思い描いた世界を実現するために勇気を持って行動しよう、ということです。「我がまま」という単語にネガティブなイメージがあるので、なかなか理解されづらいんですけど、「我がままであれ」は今の僕にとってもすごく大事な言葉です。
一人ひとりのメンバーの我がままを尊重していった結果、MIYACOには10年間で100を超える事業・プロジェクトが生まれました。グループ会社がいくつも誕生し、メンバーがやりたい仕事をして満足のいく収入を得られる、まさに「我がままであれ」を体現する企業として成長しました。でもいつからか、僕はアクセルを踏みながら、同時にずっとブレーキを踏んでいる感覚がありました。我がままな組織なので、各々がしたい事業を手がけていくと、結果として全員が一致団結してひとつの事業を大きくしていく動きは取れないんです。
ある時、会社のことを考えるのに必死で「日本が誇る経営者になる」という目標を忘れかけている自分に気づきました。このままでいいのか。経営者である僕は、皆の我がままを尊重するために、自分が我がままになれていないのではないか。そんな矛盾を抱える一方で、でも今の立場で目標に向かおうとすると、メンバーを巻き込むことになり、彼らのやりたいことの邪魔をしてしまう……という葛藤がありました。いつか全員が「これだ!」と全力を注げる事業にたどり着けるかも、とも考えていたけれど、それは相当難しいことなんじゃないかなと。1年かけて皆と何度も何度も話し合い、最終的に、自分がMIYACOを離れる決断をしました。
日本発の世界を良くする教育サービスをつくりたい
MIYACOを創業する前の話を少しすると、大学生の僕は就活を途中でやめて、大学を休学し、東南アジアの国々へ旅に出ました。帰国後に東日本大震災が起こって、ボランティア団体で運営資金を集めるために東京に出稼ぎに行って……その後、京都に戻って起業するんですけど、この頃からずっと、日本から世界を良くするサービスをつくろうというイメージがありました。
大学でウガンダの少年兵を支援するプロジェクトを企画していた時期に、自分が命を使って取り組むべきことは別にあるんじゃないかと、はっとしたタイミングがあって。地球上には課題が山のようにある。僕は教育や子どものために何かしたいという思いが強いけれど、世の中には地球環境を守りたい人もいるし、国を追われた難民の方々を救いたい人もいる。じゃあ、世界の色んな国や地域で、色んな課題に真剣に取り組むソーシャルなリーダーが生まれたらいいやん!と思ったんです。
日本発の世界を良くする教育サービスをつくる。そのためには経営ができるようになる必要があると考えた僕は、MIYACOを設立して、教育事業にいくつも挑戦してきました。サッカーの本田圭佑選手をアンバサダーに迎えた「Little You」や、10代がやりたいことを探求する「ワンゼロFC Kyoto」、教師を目指す大学生向けの海外教育実習プログラム「Global Teacher Program」など。
ただ教育の分野は、身近におもしろいプレイヤーが他にもたくさんいたんです。株式会社COLEYOの哲くんや合同会社なんかしたいの大ちゃんが素晴らしい事業をやってるから、同じところで僕がやる必要はない。そう考えていくと、どんどん皆がやらない事業領域へと向かっていくことになります。
支援が少なすぎるし、ビジネスマンが誰もいない
そして、2020年頃から児童養護施設の支援をすることに。ボランティアで通い始めて、子どもたちのキャリア支援をしました。児童養護施設は、僕が思っていたよりも国からの補助が手厚いんです。職員さんのあたたかいサポートがあり、お金の面でも安心して暮らせる環境があると感じました。
その流れで、不登校の子やヤンチャな子たちを個人的に紹介されて、相談に乗るようになっていって。その子たちの方が、公的な支援が何もなくて困っているように見えました。学校をやめて、悪い先輩に目をつけられて、危ない仕事で食いつないでいる子もいました。
ヤンチャといっても素直な子が多くて、昔の暴走族とかヤンキーみたいに暴れてる子はもうほとんどいません。いい大人と会って可能性を広げてほしいと思い、僕の仲間を紹介したり、行政とのプロジェクトを模索したり、この領域で自分ができることを探すようになりました。
そんなタイミングで、当時U35-KYOTOという京都市のプロジェクトを一緒にやっていた市職員の方が、再犯防止の部署に異動になったんです。僕にとってその異動は最高でした。「一緒にやりましょう!」と猛烈にアタックして、少年院や刑務所を出た人が暮らす更生保護施設に、市から委託を受けて通えるようになりました。
そこで初めて、少年院や刑務所を取り巻くリアルな現状を知ることになります。支援が少なすぎるし、ビジネスマンなんて誰も関わっていません。業界の体質が古くて、DX化なんてもちろん進んでいないし、イノベーションも起こらない。僕の使命はここなんだと思いました。競合は誰もいません、今の状況で参入しても絶対に儲からないから。
もう一つ強く感じたのは、世の中の認識も昔のままで止まっているということ。多くの人が思い描く少年院の子は、昔のヤンキーとか暴走族のイメージなんです。「ああいう子たちは、エネルギーあるからね!」ってよく言われるけれど、現実は全然違って、大人しいし、純粋だし、あとは発達障害を持っている子が想像以上に多いです。
僕は、その子たちに希望を感じました。
若いし考える力もあるから、彼らに必要な環境や出会いがあれば、変わることができると。
でも、本人たちは自分の可能性なんて信じてない。正直に書くと、彼らの周りにいる大人たちからも「どうせ……」という諦めの空気をひしひしと感じました。すごく熱心な方々もいます。でも、現場では期待を裏切られたり嘘をつかれたりということが度々起こるので、希望を失っていくのも無理はないということもわかりました。
希望をつくり続けられる人間は、常に社会から必要とされる
それでも僕はいま自分がいる場所から彼らを見て、冷静に考えた上で、可能性がめっちゃあると思っています。現状の日本では、彼らと社会との間にいくつも壁があって、その可能性が生かされるチャンスがない。人生100年時代のいま、彼らの人生はあと80年もあるんです。彼らが力を発揮して、やりがいを持って働いて、人の役に立って、納税もして……それが実現したら、すごい社会貢献ですよね。
HIGH HOPEという事業名は、マイナスから大きな希望を生み出すという僕らの意志表明です。マイナスからプラスへ、その差が大きければ大きいほど価値があると思うし、感動する。僕が今までやってきた活動は、すでにプラスの状態にある子たちをより良くするためのものでした。株式会社一(ICHI INC.)では、マイナスをプラスに変えたい。ソーシャルインパクトを大事にしたいと思っています。10年間、MIYACOの代表として必死に奮闘したからこそ、この事業に辿りつけました。
人間が生きていくためには、希望が必要です。人が困難を乗り越えて夢を実現するストーリーが、世の中にはいっぱいありますよね。そういうテレビ番組やマンガ、映画を見て、みんなが感動して涙を流す。根拠はないですけど、本能的に人間は希望を求めるんだと思っていて。希望を生み出し続けられる人や会社は、どの時代でも常に社会から必要とされるはずなんです。
株式会社一は、「日本が」「社会が」を主語にして事業を考えていきたい。その手段として、一人の人間が可能性を発揮して希望を生み出すために必要なサービスや商品を開発していきます。
株式会社一(ICHI INC.) 代表取締役 中馬 一登